生きてくれてありがとう
一昨日うちで飼っている犬が亡くなりました。
大きい雑種で14歳ですので、人間で言えばもう100歳近いおばあさんでした。
本当に眠るように静かに息を引き取り、まさに大往生と言える亡くなり方でしたが、やはり喪失感は家族に大きく広がっています。
アメリカに住んでいるときに捨て犬収容所からもらってきて、その後米→日など何回かの引っ越しを経てずっと一緒に暮らしてきた犬です。
以前から通勤の途中に看板を見つけておいたペット専用の葬儀屋さんにお願いして、火葬と供養をしていただきました。
今、私の前に骨壷に入った犬がいます。
私たちの心にあるのは、ただ「同じ時を生きてくれてありがとう」という気持ちのみです。
だからこそ、しっかり供養をして、天国でも幸せに暮らしてほしいと思い、夏のこの暑さで遺体が痛まぬよう、大急ぎで火葬を行いました。
今話題の所在不明の高齢者の問題の発端となった、何十年も前に亡くなっていた母親の亡骸を部屋に放置していた事件をどうしても思い出してしまいます。
人間の場合、長く生きている間には必ずしも愛情のみならず、時には憎しみの心も交錯するかもしれません。
でもそれでもなお「同じ時を生きた」事実に真摯に感謝するこころや命に対する尊厳の気持ちは、家庭の中で生を共にした者において特に強く育つものだと思います。
誤解を恐れずに言えば、子どもにとって、一緒に暮らしている人やペットが重病になったり、亡くなったときこそ本当に学び成長するための最も重要なチャンスであると私は考えています。
先の、親のご遺体を自宅に放置して年金を受け取っていた家族は極端だとしても、実際に「受験だから」「部活の大事な試合があって」ということで家族の病気や介護、葬儀などに子どもを出席させない、関わらせない家庭が結構あることを外来でお話をしていると知らされて驚きます。
もしかすると、「そういう方針の家庭だから」こそ、私の外来にいらっしゃるような事態に子どもが陥りやすくなるのかもしれない、と思う私は考えすぎなのでしょうか。